生徒作文集

生徒の声

聖母の小さな学校で学んだこと 平成30年度 )

(中学2年女子:当時)

 聖母(の小さな学校)に来る前は、どん底にいたような気持ちでした。学校に行き
たくないと言った日から、担任の先生は2回も説得に来たし、「学校に行きなさい」
「勉強しないとダメ」「そこを乗り越えろ」と親戚にも言われ、両親からも、「勉強は
絶対しろ」といろいろ言われ、ストレスが爆発しそうになりました。なんで、学校に
行くのを拒否するだけでこんなに言われなくてはいけないのかと思いました。
そんな時に出会ったのが聖母でした。初めて生徒たちを見た時はすごく緊張したけど、
どこか安心感がありました。周りの大人たちは「学校に行け」と言ってきます。私が
学校でどれほど苦しかったのかも知らずに。だけど聖母は違いました。「不登校は決し
て悪いことではない」と私に言ったのです。その言葉に私は何かを感じました。今ま
で聞いて来た言葉はトゲがある言葉。だけど聖母で聞いた言葉は一本の糸のような
言葉でした。それからは、少し不安を抱えていたけど、聖母に通ううちに、卒業生の
笑顔とか、実際に体験した事を聞いたりして、私はなんで今まで不登校であることに
ストレスを抱えてたんだろう、と自分がバカらしくなりました。聖母に来て、中国語や
カヌー体験など、初めてのことに挑戦して、自然と「自分は不登校でいいんだ」と思う
ようになりました。

<スポーツフェスタ・メッセージ=「ありのままの自分を認める」>

(中学3年女子:当時)

今日は、今まで一生懸命準備してきた体育祭の日です。
「ありのままの自分を認める」=私にとって、これほど、大変なことはなかったです。
  学校に行かなくなった頃、<ありのままの自分を認める>なんて、私には絶対にできません
でした。だって、<学校に行かない私はダメな私。><最低な私。>と、ずっとずっと心で思って
いたからです。「こんな自分は認めたくない」「こんなはずじゃなかった」と言う気持ちばかりが
グルグル心を駆け回って、人と比較することや、勉強が遅れてしまうことばかりが気になってい
ました。そんなことばかり考えていると、余計に自分がダメに思えてきて、どうしようもなく悲
しくて、前にも後ろにも動かない自分が、嫌で嫌でたまらなかったのです。それと同時に、人と
いうものが信じられなくなって、自分自身も分からなくなりました。今までどうやって生きてき
たんだろう。それに、明日からどうやって、生きていけばいいんだろう?なんて思ったりもしま
した。だけど、その考え方が少しずつ、少しずつ、変わっていき、今は人と比較するなんて、考
えなくなりました。そのことに、初めて気づいた時、本当に心が楽になりました。ずっと「くも
り空」だった心が、一気に晴れて、「明るい空」に変わった気がしました。ずっと人と比較するこ
とばかりで、少しも自分自身のことに心を傾けなかった自分自身がバカらしく思えました。ずっと
今まで、自分の事を考えることは、怖くてできませんでした。だけど、本当はそうじゃなくて、
自分の事を真剣に考えることは、「ありのままの自分を認める」ということにつながっていくん
じゃないかなと思います。自分を認めて、自分が今、立っている場所から、歩んでいったらいいん
だと思います。人に追いつくために、急いで走ったり、無理して歩いたりなんてしなくていいので
す。ただ、自分の足で、しっかりと確実に歩いていけばいいんです。
 このような思いでパネルを作りました。今日は私たちの体育祭に来てくださって、ありがとう
ございます。私たちと一緒に楽しんでください。
(本校卒業→全日制高校→大学→大学院→心理士として養護施設勤務)

「聖母の小さな学校で学んだこと」

(過年度生:当時)

 私は小学校の時から学校に行っていませんでした。行けなくなった理由は今はわかりません。
 小学校の2年生で不登校になって、家にずっといました。その時考えていたことは、「自分は
どうして学校に行けないんだろう」でした。考えれば考えるほど苦しくて、自分が嫌になった、
一日が長く感じて、早く終わればいいと思っていました。
  4年生になってからは相談室に登校していたけど、それで学校に戻った、不登校ではなくな
ったということではありませんでした。ただ、家にいると、親も先生も何か嫌な感じがして、そ
のことから逃げたくて行っていただけでした。でも、行ったり行かなかったり、夜に明日は行こ
うと思っても、朝になるとどうしても行けなくなって、考えるだけで辛くて、落ち込むだけでし
た。そういう時は、何か大きなものに心がつぶされるような気がしました。そして、絶望的にな
り、何もする気は起りませんでした。そして始終、不機嫌でした。小学校を卒業して、中学校に
行ってもまた行かなくなる、何も変わらない、と思っていました。
  中学生になって一週間位で、また、行けなくなりました。教室にいても、クラスの人が声を
かけてくれても、うまく話せなくて、その教室にいることが嫌でしかたがなかったからです。
いつも「私はどうして学校に行けないんだろう」、どうして、何で、と考えていると、夜もなか
なか眠れませんでした。そして、私は「自分はひとりでいい、だれも私にかまわないで欲しい」
と思うようになったのです。
  聖母の小さな学校に通い始めて驚いたことは、通っている人が良く笑っていたことと、自分
の不登校のことを真剣に話していたことです。私は自分のことを話すのが苦手で、人の前で自分
のことを話すのがいやでたまりませんでした。でも聖母の人たちは自分のことを良く見て、話を
していました。今、私は、人の前でも自分の気持ちを素直に言うことがだいぶできるようになり
ました。聖母のホームルームで、不登校の話が出た時も、自分の意見が言えるようになりました。
聖母に来て、一番自分を見つめて、自分が変わるきっかけになったことは、スポーツフェスタで
す。聖母に来て初めてのスポーツフェスタは、ただいるだけ、その場所にいることが精一杯で、
他のことは覚えていません。
 2回目は、スポーツフェスタの準備もして、テーマも少し考えました。それまで、自分のこと
や不登校のことを考えることができなかった私が、それは自分に必要なこと、こうできればいい
と思えたこと、これは、私が聖母に来て1年間で学んだことだと思います。この年は、少し競技
にも出られたし、楽しいと思えました。
  3回目は、副リーダーをしました。1回目や2回目と違って、自分たちが中心になって、パネ
ルの絵を考えて、テーマを決めて、とても大変でした。一番大変だったことは、パネルの説明を
大勢の前で読んだことです。緊張して涙が出そうだったけど、最後まで読めてうれしくて、ほっと
した気持ちでした。
  この年は、電車通学をするようになったし、A中学校を卒業する年でした。中学を卒業する
ということは、これからの進路を決めないといけないので、(聖母の)先生との面談をよくしまし
た。面談はとても大変でした。自分の心の中を良く見て、私は高校に行ってみたいと思う気持ち
はある、でも、大勢の人の中に入るのはまだできない、だから、大勢の中に入り、自分の気持ちを
伝えられるようになりたいと思って、(中学)4年生として聖母に残ることに決めました。
 聖母で過ごす最後の一年は、自分の気持ちを素直に良く見つめられたと思います。
 スポーツフェスタのテーマも、じっくり考えて、一番今年に会ったテーマができたと思います。
当日も、心から楽しいと思えました。そして今年一年の自分の目標が出てきました。私は小学校
から学校へ行っていなかったので、人と関わることがうまくできず、避けていたので、自分が嫌
だと思うと自分は思っていなくても相手に冷たくしたり、きつい言葉を言ってしまって、知らな
い間に相手を傷つけてしまっていたんだと気づいたのです。だから私の目標は、「人にやさしくす
る」に決めました。やさしくするというのは、思ったより大変で、よく先生に、「Tさんの目標は?
」と言われました。新しい人が来て話しかける時、目標を思い出して、今はだいぶ自然に話しか
けられるようになりました。だいぶ自然にやさしくできるようになりました。今は先生に「もっ
と笑いなさい」と言われます。
 私は聖母に(中学)4年生として残ることに決めて、高校に行けるように、聖母とは違う人
がいる塾に行っていました。初めは慣れないことが多くて行くのがいやだと思った時もあるけど、
行って塾の人と話しをするようになって、少し楽しいと思うようになりました。
 私は福知山のS高等学校を受けることにしました。それは聖母で和裁やボランティアをして
いたので、S高校にも被服や福祉のコースがあると聞いてS高校を受けようと思いました。高校
に行くと決めてからも、高校に行けるかどうか不安でした。でも自分が今までしてきたこと、
自分が思っていることを相手に伝えること、一緒に考えて行動すること、ひとにやさしくする
こと、このことを考えれば、行けないのではないかという不安は少し薄れて、大丈夫だと思えま
した。
 前は、すべてを閉ざして、だれも私に近づかないようにしていたけど、心を開いて人と接して
いると、見えなかった自分や可能性が見えて、高校に行って、自分のしたいこと、将来の夢が考
えられるようになりました。今は、聖母での生活のまとめをしっかりしたいと思っています。
 聖母に来て4年間、気持ちを素直に相手に伝える、自分を見つめる、一緒に考えて行動する、
人にやさしくする、など、たくさんのことが聖母に来て学べました。不登校になって辛いことが
たくさんあったけど、不登校になって、聖母に来れて私はとても幸せでした。高校に行っても、
時々聖母に来て、心の中にあることを話して、すっきりして高校生活をおくりたいと思っています。
(本校卒業→全日制高校卒業→正社員として勤務。2児の母)

「私の得たもの」

(中学3年女子:当時)

 私は小学校4年生で不登校になりました。その後、家を中心に暮らしていました。中3で聖母に
来てから1年、今、卒業を迎えています。
 自分が変わったと思うのは、大まかに言うと、人とまともに向き合えるようになったことと、
自分の駄目だと思う所を卑屈にならずに、まじめに受け止められるようになったことです。中学
校にも行けなくなった頃から、たぶんずっとあった課題で、聖母に来て、スポーツフェスタを
機に「人間関係」というテーマが出た時は、自分がずっと悩んでいたことの「おおもと」は、
これだったのか、と思いました。
 前の私はとにかくひたすら受け身で、逃げ腰で、自己完結型で、相手が見えていませんでした。
学校に行けなくなってしばらく引きこもりみたいな生活をしていて、自分の周り3メートル以上の
外界に興味がなくて、何か向こうから働きかけがあっても、迷惑だとしか思わず、放っておいてく
れればそれが一番嬉しいと思っていました。そして、1人で勝手に自己嫌悪のドつぼにはまって、
進路全て閉ざされたような気分になって、果てしなく沈んでいきました。それは、糾弾するものが
自分の至らなさや甘えだから逃げ場がなくて、ある部分ではすごく苦しいのだけど、袋小路に落ち着
いていれば、外界と対応しなくて良いから、ある部分ではすごく楽でした。つまりは、自分の中に
何も入ってこないように遮断して、ひとり世界に閉じこもっていたいのです。
  聖母に行こうと思ったのも、最初は中3の進路関連のいざこざが直撃するのを逃れたいが為と、
外出するのが怖かったので、それらしい理由が欲しいという後ろ向きな動機からでした。実際それ
らはとりあえず叶って、でもその他に、人と何かをして少し気分が変わったり、外に出てみると、
生活にめりはりが付いたりと、だんだん、外界にも気が向くようになって、それは結構新鮮で楽
しかったです。そして、面談してもらったり、Tさんと話せるようになったりして、悩みとか愚痴
とか暇とかを1人で抱えて発酵させているより、出してみると案外楽だというのがわかりました。
話をするようになると、今度は、自分の周りへの配慮のなさや融通のきかなさが現れてきました。
でも、人と関係を持つのは大切なことだと思うようになりました。スポーツフェスタのテーマを考え
ていく中で、そういう課題が形になっていって、自分をまっすぐ見て考えていく核になる要素が定
まっていきました。「人間関係」と言うのは、これからも大きなテーマになると思うし、スポーツフェ
スタはそれがしっかり見えるようになった大きな転機でした。本当に吹っ切れて、何か心の奥の方で
淀んでいたものが、すっきりした気がしました。
 それ以来、いつも意識するようになって、そうするとまた違った発見があったりして、人と関わる
のが怖くなくなってきました。そして今変わってきたと思うのは、自分から枠を開いて、たくさん話
をして、人と関係づけていくようになったこと、うまくいかないことを1人でこもらせないで、まじ
めに受け止め、相談したり、愚痴ったりして、外に出すようになったこと、それから相手の存在を
ちゃんと見るようになったこと、などです。まだおぼつかないものの、課題があるというのが自分
でもわかるようになったし、それを悲観しなくもなりました。避けたいことをただ避けるだけでなく、
それを相手に伝えて和解するのも大切だと思えてきました。本当に色々なことがすっきりして楽に
なって、血肉になってきている感じがします。今、聖母に来て、本当に良かったと思うし、卒業で
きるのを誇りに思います。
馴染むのには時間がかかったけれど、今は、毎日の掃除やホームルームや、突如、勃発する中身
の濃い話や、授業などのパターンの繰り返しの日常が、とても心地よくて好きです。ここで経験した
色々なことが、自分の財産になると思います。
卒業するのは惜しいような気もするし、不安もあるけれど、母校として、ずっと繋がっていられて、
後ろ盾があるようで心強いし、やっていけそうな気がします。それなりに力もついたと思うので、
これからもいろんな所に行ったり、人と会ったりして世界を広げていきたいです。
聖母に来て、たくさんの人に支えられているのが実感できたし、自分が自分として生きてきたと
思います。幸せでした。
(本校卒業→府立高校通信制卒業→大学→大学院→臨床心理士として地方自治体に勤務)

「私の原点」

(大学2年女子:当時)

 私が不登校だったのは今から5年前の話だ。5年もの月日が経ってしまえば、ほとんどの思い出というのは色あせてゆき、遠い過去のこととして記憶の中で処理されていく。しかし、私にとっての不登校の思い出は色あせるどころか、今もなお私の中で生き続けている。苦しく過酷であったことには違いないが、私にとってはいつでも思い出しておきたい、かけがえのない大切な記憶である。この不登校を生き抜いたことは私の人生の原点を築くのに絶対的に不可欠だった。ほかの人々から見れば、私の不登校の思い出など単なる汚点かもしれないし、人生において遠回りな経験かもしれない。しかし誰が何と言おうとも私にとっては通るべき道であった。もしあの時、不登校が私を捕まえてくれなかったら、今の私は存在しないだろう。不登校を生き抜いたからこそ獲得することのできたものが沢山ある。不登校の自分から卒業して5年が経つ今、その思いは強くなるばかりである。
  現在、私は岡山にある大学の2回生をしている。今年の4月からは3回生になる。
専攻が児童学科なので、心理学や教育学について学ぶ機会も多い。そのことも関係してか、大学生になってから私は今まで以上に「不登校だった私」について、よく思い起こすようになった。不登校をしていたころにはうんざりしていた、多くの人が聞きたがる「不登校になった理由と原因」も今、自分自身に問いかけてみている。それが今の私にとって必然的なことなのかは分からないが考えずにはいられない。今では誇りを持って笑顔で話せる「不登校の私」についても、当時は鏡を見ることも、顔を上げて歩く事も出来ないくらい私は劣等感の鎖に巻きつけられていた。「不登校」は明らかな事実なのに私は決してそれを認めなかった。私が創り上げた「完璧な自分」から外れてしまったみじめな自分はI.Mではなかった。いつも私の中には完璧な自分という理想をぶら下げた自分と、どうしようもなくみじめな自分がいた。私の中にはそんな二つの人格が存在していた。お互いは決して共存しようとはしなかった。理想を持った私が、弱くてみじめな自分を殺してやろうとばかりしていた。そうすることによって、きっと幸せに理想通りに生きていけると信じていたからだ。しかしみじめな自分はどうにもならなかった。なぜならば、みじめな自分が本当の自分だからだ。そんな中、理想ばかりを夢見る自分と、それに追いつけないみじめな自分との間にギャップを感じ、人生に絶望する頃には身動きが取れなくなっていた。最後にはただただ死ばかりを願う自分がいた。
人生がリセットできたらどれだけ幸せだろうかと何度望んだだろうか。私はとても苦しかった。死にたかったけれども、同時に生きたかった。家族の目の前で何度も自殺しようともした。しかし、それはきっと、本当に死にたかったのではなく、一人では抱えきれない心の苦しみや、やるせなさを、なんとかして誰かにわかってほしいという切望からそういう行動に出てしまったのではないかと今になって思う。もし本当に生きることをやめようと誓っていたなら、私は家族の目の前ではなく、確実に命を絶てる場所を選んでいたに違いない。
  私が生きることにようやく安心できるようになったのは、惨めでどうしようもない自分だけれども、不登校のあるがままの自分を認めて受け入れてやることができたからだった。目を背け続けていた自分と手を結んだ時、はじめて生きている実感がした。このあるがままの自分でいいのだと、飾らなくてもいいのだと思うと、体に絡みついていた劣等感の鎖がほどけていく気がした。あるがままの自分を受け入れることが私の新たな人生のスタートだった。私らしく生きていく不可欠なスタートだった。これこそが人生のどんな場面においても重要で、本当の自分を知らなければ、本当の自分の問題を解決することはできないのだと痛感した。理想の自分、良い自分で生きていられるのはほんのわずかな時間でしかない。飾ってばかりの自分では真実に出会うことはないだろう。いつも自分を演じて生き続けなければならない。そして不思議なことに、あるがままの自分を受け入れることは、他人のあるがままの姿を受け入れることにも繋がっている。本当の自分と向き合える人は他人のあるがままの姿とも向き合えているように感じる。人間は好きな自分も嫌いな自分も、一緒に共存して初めて一つの人間になれるのだと思う。人間が人間らしく生きるためにはあるがままの自分と手を結ぶことは不可欠だろう。
  大学に入ってから、自分の時間が沢山持てるようになったため考えることも多くなった。ある時、私の大学の学科長が私たちを見て「日本の若者はアジアの老人だ」と言われたことがある。あまりにも的を得たその言葉に苦笑するとともに反省せざるを得なかった。実際、私の周りの若者たちの目を見ても大半は輝きがないことが多い。私ももしかしたらその一人かもしれない。物質的には豊かな日本だけにその豊かさを履き違え、それに溺れてしまい、楽しいことだけをいつも追い求めてしまっている現実がある。
常にお腹はいっぱいなのに精神的な満たしはほとんどなく、いつも心が虚しく感じていて孤独になっている。なぜ虚しいのかという原因を考えることもしない。そして自分自身を大切にできない代わりに他者を大切にして生きるすべもわからずに生きている人が多い。私自身も反省すべき点は山のようにたくさんある。こんな私が他者を批判するわけではないが、あまりにも悲しくなることが多い。なぜもっと自分自身と精一杯、向き合おうとしないのだろうか。なぜ全ての苦しみを避けて生きようとするのだろうか。なぜまじめに生きることを恥ずかしく思うのだろうか。これは人間として生きていくために基本的なことではないだろうか。この基本を身に付けることこそが、今、人格形成の途中にある私たちにとって必要不可欠な事ではないだろうか。何も我慢しなくてよくなったこの時代に、これ以上のがまんやまじめさを忘れると、堕落して、いきつくところまで行くような気がしてならない。私たち若者は「真剣に生きる」という事をもう一度心から考え直さなければならないだろう。真面目に真剣に生きることは、すべてのことと繋がっていく気がする。真面目に話を聞いて考えることをすれば、多くの知識や知恵を自分のものにすることができる。自分自身の受け皿をいつもしっかりと持っていなければ、いくら周囲の人々が働きかけてくれても何も得ることはできない。同じ環境と条件の中で生きていくのなら、自分自身で人格形成の糧となるものすべてをこぼさず掴み取っていきたいものだ。幼稚で身勝手な自己主張を確立させていくのではなく、自分らしくもありながら、相手も思いやり、自分自身の信念を持ち、生きていける人になりたいと思う。自分自身とも真剣に向き合い、苦しみや困難な事から回避しない人生を送っていきたい。苦しみや困難に遭遇するからこそ、人は成長できる。傷つかぬように自分の感受性のレベルを落として、死んだような目をして生きるよりも、傷ついても絶望してもいいので、心から涙を流せるような、人の痛みを自分の心で感じられるような豊かな人格になる方を私は選択したい。情動の波を常に一定に保ち、坦々と生きていくよりも、多くの事を感じ取り、波があっても生き生きと人間らしく生きていきたいものだ。
  人生の中でつまずいて倒れてしまっても、そこから起き上がればいい。大切なのは、自分の力で起き上がるということ。あるがままの自分から逃げてしまわないということ。始めからつまずいたり倒れたりしないような強靭な人間になりきってしまうよりも、弱くても立ち上がれる強さを持った人間になる方がいい。つまずかないストレートな人生よりも、つまずいて、泣いて、苦しんで、悲しんで、そして笑って、また歩き出す人生の方がずっと楽しい。立ち止まってしまったら歩けるようになるまでゆっくり待つ勇気も時には必要だし、苦しみは苦しみだけでは決して終わらないと信じて生きていくことも必要だ。きっといつの日か、苦しみが教えてくれた、かけがえのない価値を自分自身で見いだせる時が来るはずだから。
  当時は自分の事だけで精一杯で、多くの方々の支えの中で自分が成り立っていることなど考える余裕すらなかったが、私は数えきれない方々の支えの中で生きてきた。今だからこそ分かるありがたみというものも沢山ある。私と一緒に不登校を生きてくださった全ての方に心からの感謝の言葉を述べたい。
  Slowly As We Are! これは聖母の小さな学校から卒業の時に送られた言葉だ。これが私の原点である。

(本校卒業→全日制高校→大学→大学院→心理士として養護施設勤務)

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